木曽に伝わる
伝統薬・百草とは?
長野県製薬の
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紀元前2000年ころ縄文時代の遺跡より「キハダ」の出土。考古学上で使用か確認された最古の生薬といわれる。
600~650年ころ時の支配者により大陸から医薬制度が導入されるが一般民衆には普及せず。
634年 舒明(じょめい)天皇のころ修験道の開祖、役小角(えんのおずぬ)が大和の国(現在の奈良県)に生まれる。
690年ころ各地で疫病が流行し、役小角が大和国葛城の吉祥草寺の境内に大きな釜を据え「キハダ」を煎じて煮詰めた薬(オウバクエキス)を多くの病人に飲ませ、救済したとされる。以来、オウバクは山岳修験者の常備薬としてもちいられるようになったといわれる。
701年(大宝元年)大宝律令制定。最古の医薬制度(医疾令)が公布される。
729年(天平元年)山岳修験者の合薬、造薬の禁止令
「・・・山村に定住し仏法をいつわって自ら教化を作し、業を授け印書符をひろめ、薬を造り、毒を造り、万法怪を作し、勅禁に遠犯する者は罪またかくのごとし・・・」
この背景には、時の支配者による仏教の国教化政策が伺えるが、これによりオウバクエキス薬は歴史の表舞台からしばらく姿を消すこととなる。しかし、修験者の間では脈々と受け継がれ、大峰山、吉野山では「陀羅尼助」
高野山では空海の教え「大師だらにすけ」、そして御嶽山では百草として伝わる。
774年(宝亀5年)信濃守石川望足(信濃守)が大己貴命・少彦名命(医療・医薬の神)の二伸を御嶽山に祀り、疫病徐抜を祈願したとされる。
伝承によれば、「光仁天皇の宝亀5年、国内に悪疫が流行し医薬をつくしたが効果がなく、4月に至ってますます烈しくなったので、天皇は諸国にて神に祈らせることにした。そこで信濃守石川望足は同年6月、御嶽山に登拝して祈願をこめた」とされる。
928年(延長5年)醍醐天皇が信濃国司に勅命を出して黒沢(木曽町三岳)に里宮を建立させた。
1300年ころ木曽谷(北部)を領有していた木曽義仲の子孫を名乗る木曽氏は深く御嶽大権現を信仰し、代々これを守護神として崇拝し、社殿の再興社領の寄進等を行った。
修験道と結びついていた御嶽山も修験道の退潮とともに、民間信仰としての御嶽信仰が生まれ、登拝する導者は黒沢(木曽郡三岳)・王滝村を中心に木曽谷一円に及んでいった。年に1度、3月ころから精進潔斎を行った少人数が6月12,13日に里宮祭礼祭、14,15日で登拝をおこなっていた。
黒沢村(旧木曽町三岳村)神主武居氏、王滝村神主滝氏がその指導、要請を行った。
1600年〜豊臣氏の侵攻による木曽氏滅亡後。木曽氏の旧臣、山村氏が徳川氏に従い木曽代官となる。
山村氏も又、御嶽大権現を深く信仰、社殿の再興修理を行う。
1700年ころ江戸時代中期、交通が発達、旅行者も増加。民間信仰として伊勢参宮、金毘羅参りが盛んになり、富士山や大山、月山などを登拝する講社も増えてきた。一方、御嶽山では古来よりのしきたりが守られ重潔斎を経た一部導者だけの登拝であったが、一般民衆にも開放してほしいという要望が年々高まってきた。
1718年(享保3年)覚明(かくめい)行者 尾張国(現在の愛知県)春日井郡牛山村に生まれる。
1731年(享保16年)普寛(ふかん)行者 武州(現在の埼玉県)秩父郡大滝村に生まれる。
1782年(天明2年)御嶽山開山の祖といわれる覚明行者、軽潔斎による一般信者の登拝許可を願い出るが却下される。
覚明行者はこれに屈せず、まず山麗の村民の支持を得て御嶽開放の運動を推し進めていった。
1785年(天明5年)覚明行者が無許可にて水行潔斎のみで多くの信者とともに登拝を強行する。これが御嶽山の開山の第一歩となる。その後も登拝を続けるとともに登山道の改修に着手し、次第に地元住民のも協力者が現れるようになった。
1786年(天明6年)覚明行者が御嶽山二の池付近で一生を終える。その後も村人たちにより、道路が改修され、登拝を希望するものも年々増加していった。
1791年(寛政3年)富士山や月山の麗の村が登拝による大きな経済的潤いを見せていることに鑑み、御嶽山麗の村人からも開山の要望が出される。
1792年(寛政4年)山村代官、軽潔斎による登山を5日間のみ認める。
1793年(寛政5年)普寛行者、王滝口を開山。(禁を破って強硬登山する)
1794年(寛政6年)黒沢村の申し出により山村代官、王滝口の登山を禁止する。同年普寛行者、他19名来村。普寛行者達の布教活動により御嶽信仰は江戸を中心とする関東地方へ急速に広まる。また、普寛行者はその後も講社を結成し王滝村へ来村、王滝口より登拝を続け、年々登拝者は増加していった。
1799年(寛政11年)福島村役人の仲裁により王滝口登山道が正式に認められる。
1801年(享和元年)普寛行者、武州本荘駅にてその一生を終える。
1849年(嘉永2年)寿光行者(普寛行者の弟子)が普寛霊神のいいつけであるとして「御嶽山の百草百種を採り集め、良く煎じ詰めて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え」と教えたと伝えられる。これを伝授された村人は苦労して百種(それくらい多く)の薬草を採り集め、薬を製したとされている。「百草元祖の碑」によれば、「嘉永2年胡桃澤彌七と小谷文七が普寛行者の違法を共に謀りて百草を作りに初まる」と記されているが、これは百草製造が定着した時期であるとする説もある。「百草」の起源については諸説があるが、七世紀に役小角がオウバクエキス薬により民衆を救済して以来、修験者の間で脈々と受け継がれてきたものが、やはり修験者の覚明、普寛によって伝えられたと考えられる。従って弊社ではその起源を覚明行者が御嶽山麗の村民と関わりを持った1782年としている。
1868年(明治元年)神仏分離令が布告される。
1869年(明治2年)黒沢里宮、王滝里宮は名古屋藩、木曽代官所の命令により、仏像を除き、御嶽権現の称を廃止、「御嶽神社」と改める。
1874年(明治7年)売薬取締法公布。これまでの家伝薬としての製造が禁止され、「官許」(国による許可制)による百草製造が始まる。当時の百草(「百草製」という)の処方 オウバク、オウレン、オウゴン、センブリ、百草霜、エイラントモスなど。
1900年(明治後期)ころ明治時代後期~大正~昭和初期に胃腸薬の需要増大。この背景には、度重なる戦争(日清戦争、日露戦争、満州事変、第二次世界大戦)によって海外派兵された方の多くが携行したものと考えられる。
1936年(昭和11年)木曽製薬工業組合成立。原料の共同仕入れ、共同設備による共同生産がはじまる。
当時の処方
「百草製」:オウバク、オウレン、リュウタン、エイラントモスなど
「百草」:オウバクエキスのみ(百草とおなじ処方で「だらにすけ」も販売)
1938年(昭和13年)百草丸製造開始。売薬発売免許取得
当時の処方
オウバクエキス、センブリ、リュウタン、チンピ
1939年ころ(昭和14~15年)国庫補助により共同百草工場を完備
1941年(昭和16年)医薬品の生産、配給が統制される。
(国家総動員法に基づく医薬品生産配給統制規制公布)
1943年(昭和18年)戦時統制下により長野県で唯一の製薬会社、長野県売薬統制株式会社設立。
本社を長野市におき、木曽売薬工業組合は福島支店となる。
1944年(昭和19年)長野県製薬株式会社に社名変更
1949年(昭和24年)長野市本社を木曽福島町(現在の木曽町福島)へ移転。三岳工場、王滝工場設立。
1952年(昭和27年)医薬品の配給統制が撤廃される。
1962年(昭和37年)木曽福島町新社屋建築。
木曽地方の旧製造業者に対して、全国に類を見ない特例販売資格を70名に許可。
1970年(昭和45年)木曽福島町本社新工場竣工。
1976年(昭和51年)王滝村此の島(現在の本社所在地)へGMP適合新工場完成。
1977年(昭和52年)木曽福島町から本社を王滝村此の島(現在地)へ移転。
本社敷地内に御嶽神社を建立。
1981年(昭和56年)百草丸処方変更。
1982年(昭和57年)百草顆粒発売。
1983年(昭和58年)御岳百草丸一部処方変更。
2015年(平成27年)信州発の優れたブランドを選定・表彰する「信州ブランドアワード」にて御岳百草丸が入選。
2020年(令和2年)御岳百草顆粒UII発売。
御岳百草顆粒に処方に新たにウルソデオキシコール酸を配合。
2021年(令和3年)御岳百草丸分包充填包装機更新。